ふと気がついたのだが、ISを使った際のワンド消耗が、どうも以前よりやたら激しいような気がして、ひょっとしたらFBみたいにチャージ数によって消耗度合いが変動するようになってんじゃね?とか思ってwikiを覗いたところ、
チャージ数×スプラッシュ回数
という体感が出ていた。
ああ、やっぱり減るの早くなってるのかなぁ。検証しようにも前のデータはとってないから、現状データだけしか出てこないけど、ちょっと気にしてみよっかな~
さて、そんなところで今日は「議論」のお話をしようかなと。
って、これまたえらく唐突だけど、ちょっちあるところの「議論」を見て思うところがあってね。
wikiでの編集議論にしても、よくある掲示板での議論にしても、結局のところこれらは「隔離処置」的な扱いです。
それはネットの風潮としては、「議論をすることはよろしくない」という風潮があるからです。
というのも、議論という議論にならず、互いの意見をぶつけ合うだけの言い合いなケースがほとんどで、結果として実りのないものが多いからです。ネットであろうとリアルの議論であろうと、「言論の自由」があって議論は成り立ちます。自由であるということは、他人の意見を変える強制力はありません。
まあ、ようするに「場が荒れる」という結果しか残さないわけです。ですから、こいったことに発展しかねない内容を最初から禁止する場所も少なくありません。
1.「始める」には、まず「終わり」を用意しなくちゃいけない
ネット上の議論が何故よろしくないのか、という点から考えていきましょう。
議論をする上で重要なことその1。
中立の立場に立つことのできる人間の存在です。
大概の場合、「司会」や「審判」的な存在がこれを担うことになります。学級会で言えばクラス委員や先生が、会議で言えば議長、裁判で言えば裁判官がそれにあたります。これらの存在は、自己を完全なまでに中立化し、絶対にどこかに肩入れをしてはいけない存在です。
ネット上の議論は、大概この存在が欠けてしまっています。
当然、議論し合う各勢力は、己が意見が正しいと信じているので、対抗勢力の相手を論破しきることでしか終わらせることができなくなりますが、議論になるものは大概「それぞれの意見に必ず否定しきれない要素」があるから議論になるわけで、互いにどう頑張ってそう簡単には論破できない部分(価値観の違いがほとんど)が出てきて議論が行きずまりますが、それを見極められる人がいないと、最終的には水掛論や罵り合いに発展することになります。
また、「なんのために議論をするのか」、「どうやって終わりにするのか」という、そもそもの根底がないという点です。ある日、唐突な言い合いから発展する議論には99%くらいコレがありません。言いかえれば終着点が最初から用意されていないのです。
議論はまず最初にそれらの「ルール」を決めるところから始めなければなりません。最初に挙げた「審判」のような存在がいるならば、その人に一任することでもいいのでしょう。
そして、ネット上で意見の相違が議論に発展するということは、自己と相手の両方の意見を見極めたり、互いに歩み寄る気持ちがあまりないからです。、
互いの意見をぶつけあって理解を深めようという対話だけが目的であるならともかく、「何かを決める」という形の議論では、お互いのことを理解し、どちらかに決められないのならば納得のいく妥協点を探すことも大切なのですが、最初からこの考えのない人間同士が言い合いを始めるのでほっておいてもまず終わりません。中立的な存在が介入すればいいのですが、こういった形になった場合で議論が終わる時というのは、「どっちかが面倒になって投げだす」などの、極めて意味のない終わり方にしかなりません。
始める前に終わりを見る。極々当たり前ですが、なかなかここからスタートしないのがネット上の議論です。
そんなところで、上のを踏まえて議論をする上で何が必要なのか、という点を見ていきましょう。
2.意見の根拠
議論をするということは、単なる意見の押し付け合いであってはいけません。
よく、議論をはじめると「客観性にかけます」という言葉が出てきます。
まあ、おいらもよく使う言葉ですが、そもそも「客観性をもった意見」とはどんなものなのか。
例えば、自分の感想を述べるということ。
これは客観性があるでしょうか、ないでしょうか?
「○○こそが最強だと思う」というだけの意見だとしたら、客観性は0です。
しかし「述べ方によって客観性を持たせることはできる」のです。
客観性のある意見の大前提は論的根拠が「自己とは他のところにある」ということです。
この条件では、ひどい話を言えば「Aさんがそう考えているから俺もそう思う」というのも「客観性」があることになりますが、ここでの「俺」から見れば「Aさんの考え」は「自己とは他のところの根拠」ですが、肝心の「Aさんの考え」が「Aさんとは違ったところにある根拠によるもの」であるとは限りません。
感想という一見主観的な内容であっても、その「感想」に至る筋道において、根拠が可能な限り他の場所にあれば客観性を持った意見になります。
ですが、根拠が「他に」あったとしても、客観性を表現するには「その意見に至る過程」を説明できなければなりません。
議論において数字を持ち出すことが多いのですが、これが非常に理にかなっているというのは、数字という根拠は、それを導き出す過程が分かりやすく、ほとんどが自己の範疇外から出てくるという、極めて客観性の強いものだからです。しかし、それですら筋道を立てて説明できなければ客観性を持った意見とはなり得ません。
また、当然ではありますが「根拠は明確」である必要があります。
自分の意見を出す際には、なぜその意見を持ったのかという自己の思考を遡って、最終的の「根拠」にたどり着くまで考えていくことが重要です。簡単に言ってますが、いざ自分の思考をトレースするってのはとても難しいことです。が、納得できる意見とはそういったところから生まれてくるものです。
自分の意見の根拠は何か、それはどこからきたものなのか、そしてそれは明確なものなのか・・・
それがわかれば、あとは順を追って説明するだけです。
余談ですが、ネット上では「長文が嫌われる」傾向にあるため、客観性を持たせた意見は非常に「書きずらい」という風潮を生みだし、より議論するには難しい空気を作り出してしまっています。
3.理解し納得し認める
議論の理想的な終了とは、互いに理解し納得して終了を迎えることです。
これを最終目標としなければ、そもそも議論する意味がありません。これは決議の必要なものであってもそうでなくてもです。
そのため、出した意見に対し納得できない部分はどんどん質問し、納得できるまで繰り返す必要があります。
万人が納得できる形に持っていくには、それはもう長い時間が必要で、現実問題、議論の参加人数によっては不可能に近いものであります。日本の国会などを見てもわかるとおりですね。国会では議論する期間を設け、民主主義の原理に則って多数決によって採決をとることで、決着をつけるシステムが組まれています。
(もっとも、国会のようなシステムでは、結局は多数決という数の勝負になる以上、理解や納得よりも「数」の戦いになってしまいます。・・・まあ、一つ決めるのに何十年とかけられるわけでもないのでどこかで妥協しなきゃいけないわけですが)
ですが、あくまで最終的には互いに納得することを目的に始めなければ、中身のない議論になってしまいます。互いの意見を攻撃しあうだけことだけでは議論とはいえません。意見の相違点を見極め、なぜ相手がそういった考えを持ったのかを理解するよう努力しなければ、結局は意見のぶつけ合いで終わってしまいます。
最初の方で語った通り、ネットの議論が単に荒れるだけのものになるのは、ここが足りていないことがほとんどだからでしょう。
論破するということは単に意見で意見をねじ伏せるということではありません。相手が理解するするまで質疑応答を繰り返すことでなし得るよう努力するべきです。
とまあ、そんなわけで、価値観の違いを認め合うのは難しいことなんですが、それを乗り切るための手段の1つが議論すること。
ネット上の議論ってのも形式を踏んでいけばそれっぽくできるのに、やろうとしてないのはやっぱり頭に血が上ってる連中が言い合っちゃうからだったり、議論になる切欠が唐突だからなんだと思うんですよね。で、気軽に第3者がバッシングできちゃったりするから余計拗れやすい。まして、テキストだけで語り合うから「真意」を伝えることも理解することも難しい意思に対する「歪み」の強い世界だし。
それでも、俺たちはこうやってネットで活動し語りあう以上は、どうあがいたって意見の衝突は避けられない。そういった時に、どうできたらいいのか。何が正しいかなんてわかんねーけど、そういうのを理解するための手段があるなら、実りのあるものになるよう有効に使いたい。
自分の信念を貫き通すことは難しいけど、意固地になるのと頑固なのは違う。色んなものを見て、聞いて、多様な価値観を理解できるようになっていけりゃいいよね!と、思うんだ、ぜ。